おはようございます。
梅雨。気圧の変化による頭痛。人生初バイトの給料がようやく振り込まれ、社会に一歩(ほんとうに一歩)足を踏み入れた実感がじわじわと湧いてくる。引きの画で日本という社会に住む私。いつの間にか排外主義の声に囲まれている。さらに引けば、留まるところを知らないイスラエルの横暴が見える。ゴタゴタの現実を前提にして成り立っている音楽ないし芸術は、いろんな意味で「社会」を知らない人間に理解できるはずがない。常に頭の片隅にある焦りがいっそう強くなった月だった。
中旬には、祖父母の様子を伺うため、一週間強名古屋で生活した。手伝いで忙しくなるかと思いきや、祖母が想像以上に健康で、こちらが入る隙はかなり少なかった。私がしたのは、Wi-fiやAmazon Fire TVをいじる、新しく購入したスマホの操作を少しずつ教えるといったデジタル面のサポートと、ホコリにまみれた大量の本を縛ってまとめる力作業、軽めの掃除くらい。滞在の半分以上に充てられた自由時間を存分に使い、勿体ぶらず外に出た。名古屋城・岡崎城・徳川美術館で、歴史の重みをひしひしと感じ、ヤマザキマザック美術館と豊田市美術館では西洋美術に触れ、自分なりに哲学を掴み取ろうとする。久々に有意義な時間の使い方をした。特に後者、かなり頭がほぐれた。
さて、音楽の話題に切り替えよう。やはりBrian WilsonとSly Stone、アメリカ音楽界のレジェンド二人が亡くなったことが、暗くも一番大きい話題だろう。ただ、肉体が死んでも音楽は生き続ける!クサい言葉だけど事実は事実。『Pet Sounds』は一つの作品に向き合い続けると音楽の面白さを教えてくれた思い出の一枚、いままでもこれからも。
軸
- Perfume
ワンピースの映画で有名なAdo《新時代》を今さら聴いた。Bメロでボーカルに5拍ポリメーターを採用していることに気づき、すかさず編曲者のクレジットを確認したら中田ヤスタカの名前があった。中田ヤスタカといえばPerfumeだ。同様の5拍ポリは《ポリリズム》でも見られたが、こういうアプローチは他の楽曲でも使っていたりするのか?そもそもPerfume自体有名曲しか知らなかったので、この機会に『GAME』『⊿ (Triangle)』『JPN』をとりあえず聴いてみた。ビリビリの高音が効いたベースは聴認性(視認性の聴覚版)の良いラジオ向けな感じでイヤホンで聴くにはクドいが、そういうのは第一線のポップスが背負う宿命でもあるので大して重要ではない。注目すべきは編曲。やはり《ポリリズム》《チョコレイト・ディスコ》《レーザービーム》は凄い。揺らぎの少ない無機質なボーカルが反復を軸に組み立てられたメロディやリズムの構造を際立たせていて、さらにそこには普遍的なポップネスがある。売れるべくして売れた曲だと思う。そんな中田ヤスタカのダンス・ミュージックの影響がより大きなスケールで現れたのは『⊿ (Triangle)』、突き抜けた楽曲こそないものの(私が聴いた三枚の中では)トータルの完成度が最も高いといえる。《Night Flight》ではYMO《Technopolis》の明確な引用があったが、ここでようやく、過去はYMO、未来はYOASOBIに繋がるサイボーグ的ポップセンスの系譜が見えてきた(間に機械そのものであるボカロを挟むこともできる)。遅かった!
- Turnstile
話題のハードコアバンド。強すぎるコンプで生気が抜けていて基本的にはつまらない部類だけど、ドリーム・ポップとかニューウェイヴを混ぜるのがその手にしては珍しいので聴いている。まずは新譜『Never Enough』を聴いて、旧譜も聴き直した。感想は少し書いた。前作との間で大きな進展はない。
- ブラックメタル
Enslaved『Hordanes Land』『Vikingligr veldi』
Ulver『Kveldssanger』『Nattens madrigal』
Lust Hag『Irrevocably Drubbed』
- ストラヴィンスキー『春の祭典』
無料で受けられるハーバード大の『春の祭典』講義をコンプリートした。当初の目的はあの奇怪な音楽の専門的な解説(と英語の勉強)だったのだが、まず冒頭で「この作品は四人の合作だ」と言われ、ハッとした。本来の『春の祭典』は決してストラヴィンスキーの音楽だけで完結するものではない。興行主セルゲイ・ディアギレフが動かした大金を元に、ニコライ・リョーリフが彼の専門分野であったスラヴ文化を下敷きに練り上げたコンセプトとビジュアル、そこから着想を得たストラヴィンスキーの音楽、その音楽にマッチしたヴァーツラフ・ニジンスキーの振付を一つに束ねてようやく完成する総合芸術、バレエ作品なのだ。むろん実現のためにオーケストラやダンサーも必要だが、作品の構築に関わった中心人物はこれらの四人である(バレエの大御所エンリコ・チェケッティは彼らを「Four Idiots」と呼んでいる、真意は不明)。唯一ニジンスキーだけ存在を知っていた程度の認識だったので、この機会に知ることができてよかった。とにかく『春の祭典』は衝撃的な作品で、その衝撃は届けられるべくして届けられたらしい。というのも、この作品は意図して「アンチ・バレエ」の方向性をとっているからだ。ストラヴィンスキーの変拍子マシマシ作曲はもちろん、ニジンスキーの振付も分かりやすい。バレエにおいて古典的な180°の交差したガニ股(アンディオール)を反転させた180°の内又、西洋的なしなやかさに対する硬直した運動。暴動で有名な初演のプログラムも、伝統的なバレエに挟まれる形で当曲が組み込まれていたという。そこまで徹底的に「アンチ・バレエ」だとは知らなかった。てっきり音楽だけかと思っていた。ストラヴィンスキーが自らの手柄のために嘘を繰り、「四人の総合芸術」としての《春の祭典》を「一人の総合芸術」に書き換え、それが結果的に「音楽だけ」に焦点があたる原因になったということも、知らなかった。▶こういう前提を知ったうえで、私は音楽にフォーカスする。さまざまな指揮者による録音を聴き比べて、異なる角度から曲の構造や可能性を浮かび上がらせてみる。具体的に聴いたのはカラヤン(64)、小澤征爾(68)、ブーレーズ(69)、テオドール・クルレンツィス(15)の四つ。テオドール・クルレンツィス指揮が群を抜いて退屈で、他の三者がどれほど表現力に富んだ指揮をしているのかが逆に分かった。そもそものオーケストラや録音に問題がある気もするが、両極端な抑揚と歌心の無いMIDI的な演奏が楽曲の良さを尽く殺していて凄い。カラヤンは端正、小澤征爾はプリミティヴな春の印象とマッチした若干の荒々しさがある。ブーレーズは端正でありながら荒々しさを損なっておらず、目立たせるフレーズの選択というかそれぞれの線の濃淡も丁度良い。ただ〈誘拐の儀式〉のキメみたいなところで3連符のパルスを崩す解釈はよくわからない。うーん。四つ聴いて多少はインストールできたかな。まだ半分くらいしか分かっていない気がする。
- 菊地雅章『Susto』とMiles Davis
サブスク解禁された和ジャズの名盤をその元ネタと聴き比べた。二者の違いを<比較的硬質なファンクネス⇔無調感とカオティックで融解した音響>と書いたが、Rolling Stoneのレビューでも「マイルスの音楽が夜の呪術的なサウンドだとすれば、『ススト』は都市的で近未来的、そして人工的な明るさを備えていた。」と書かれていて、So!と思った。無調感てのはちょっと語弊があるけどえ。どちらが好きかと言われるとやはりMiles、熱を帯びて溶けてる方。『Susto』も悪くはないけど、中盤二曲の毛色が違いすぎてなんとも。
- テクノ?
前述したPerfumeやObongjayarの新譜『Paradise Now』を聴いたりしていくうちに、ダンス・ミュージックに対する興味が湧いてきた。その祖先である「テクノ」を色々調べてみる。シングル曲とかではなくて、おそらく一度も真剣に向かい合ったことのないであろう長~いDJセットを標的に、有名なBoiler Roomでテクノを探す。手始めに有名な(自分が名前を知っている)DJ、再生回数の高いFred Again..のセットを聴いたが、テクノ要素が薄かったのもあってか、楽しかっただけで期待以上のものは得られず。ある日(THE ALFEE)、RYMのFFさんから、Etapp KyleというベルリンのDJのセットをオススメされた。長時間の尺を活かしに活かした禁欲的なミニマリズムに無事ノックアウトされ、その流れでミニマル・テクノで調べてBasic ChannelのEPに突撃。DJmix(またこれも別の方にオススメしてもらった)にも突撃。ダブ・テクノの方面にも進めた。ミニマル・テクノは『テクノイズ・マテリアリズム』で知って以来「好みの音楽だな~」と思いながらも放置していたので、早めにおもいだせてうれしいうれしいわ。私の照準はこういったジャンルに限らずダンス・ミュージック全体にあるので、ドラムンベースとかハウスとかも知りたい。その前に、得た知識が分裂してしまわないように、歴史につなぎとめて体系化しておこう。ドキュメンタリーか書籍かなんか良いのあるかな。さがしていまSU.
- Bill Evans
- ショナ族のムビラ音楽
グッド新譜
- betcover!!『勇気』
- Putridity『Morbid Ataraxia』
- Purelink『Faith』
- Tim Barnes『Lost Words』
- Little Simz『Lotus』
- Ishome『Carpet Watcher』
総括
新譜を全然聴くことができなかったけど、自分は歴史を知ってから作品の立ち位置を考えた方が、点と点が線になる可能性というか、網目がだいぶ広がりやすくなる(型を重要視するジャンルの場合は特に)ということを知ってしまったので、このままでいい。少なくとも今の私には無闇矢鱈に聴き漁るメリットは少ない。これくらいでいいと思う。過去に閉じこもったら終わりだけど、新譜も完全に聴いてないわけじゃないし、なんだかんだでバランスはとれているんじゃないかな。そんなことはともかく、早くクラブに行きたいな。座って静かに音楽を鑑賞する態度および空間というのは、近代以降発展してきたブルジョワ的なものであって、決して音楽に対する向き合い方のすべてではない。古今東西、踊るために作られた音楽がある。それは本来イヤホンやレコードプレーヤーといった私的な範囲ではなく、大編成の生楽器やデカいスピーカーから放たれることを前提にしていたりする。そのグルーヴや反復の美学には、ロック・ミュージックとはまた違う身体性があるはず。だから、早くクラブに行きたい。家では限界がある。暑いし。そのためには自らの手で金を稼ぐ必要がある。