二週間で音楽の本を二冊読んだよ。
// 佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』
「テクノイズ」というワードについては今年の4月に読んだ菊地成孔, 大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』で知った。菊地成孔は自分なりの解釈として、ピアノの打鍵音やリップノイズなどの「発音」において不可避的に含まれる非楽音をテクノイズと定義づけている。はて。全く聞いたことのない概念だったのも相まって興味を持った。
佐々木敦は、テクノロジーに内在するノイズを聴取しようとする試みをテクノイズという造語で表現する。それは音楽ジャンルではなく一種の思想を指している。この概念を呑み込むのには少々時間がかかった。テクノ⇒ミニマル・テクノときてその先にポスト・ミニマル・テクノとでもいうべきテクノイズが立ち現れる、といった図式的な文章があって、テクノのサブジャンルなのかと誤解しそうになった。そして、上記の菊地成孔による定義は、聴取ではなく発音の部分を拡張し派生させたもので、本書の意図からはやや逸れているっぽい。ややこしい!
ちなみに「マテリアリズム」は、「誰もいない森の中で倒れた木からは音がするのか?」という有名な問いにイエスと答え、聴取に先立って「音」が存在すると考える、唯物論的な姿勢のことデ。
なお、本書は全三章からなっていて、テクノイズを提起しているのは最初の一章だけ。二章はDerek Baileyや高柳晶行、大友良英の活動を通したインプロヴィゼーションについて、三章はPauline Oliverosのディープ・リスニングやミニマリズムを軸に「音」と「聴取」の関係について論じている。それぞれでテクノロジーとマテリアリズムに関する問題が打ち出されるが、親切なまとめはない。点と点を結んで「テクノイズ」の像を浮かび上がらせる作業はこちら側に託されている。むずい。
未聴の音源が多かったので、まだ十分といっていいほど感覚と理論を結びつけ切れず消化できていないところはある。でも面白い。ひとつ欠点があるとすれば、鍵括弧が多すぎて読みづらいこと。
// ジョン・マウチェリ『指揮者は何を考えているか』
むーちゃ面白かった!ユーモア溢れるエッセイ的な文体で、非常に分かりやすく指揮者のノウハウを教えてくれる。特に、随所に挟まる具体的なエピソードの数々がどれも興味深い。何せ著者はレナード・バーンスタインのアシスタント!…とはいっても、私自身バーンスタインをよく知っているわけでもなく、そもそも指揮者の役割という初歩の初歩を知るためにこの本を読むことにしたんだった。
- 指揮者は、音楽の複雑化やスケールの拡大に伴って重要になった。
- 指揮棒を使わない指揮は、拍の刻み方が比較的自由な音楽に向いているが、スケールの大きい音楽には向いていない。
- 過剰にコントロールしようとすると逆に演奏が乱れる。
などなど、ピカピカ。
クラシック音楽では伝統や解釈が重要だというのはうっすら知っていたけど、指揮者がどれほどの力をもって、どのような思考回路でそれと戦っているかは知らなかった。
驚いたのは、作曲家が自作の指揮をする場合がベストじゃないか?と思っていた私にきっぱりNOを示してくれたこと。「作曲家は指揮者として体の使い方が最も下手」とまで言い放っている。(ストラヴィンスキー指揮『春の祭典』のことは多くのページを割いて具体的に説明していて、とーても勉強になった。)
作曲家が自分の作品を指揮するのであれば、楽譜に書かれたことを解釈する人間を間に挟む必要もなく、演奏者に直接自分のヴィジョンを示せるので、最も無理のないやり方だと思うかもしれない。そうではないのだ。作曲家はみな、こう言うだろう。自作を演奏する準備をするとなると、その作品の原典に立ち返り、その理念を実践的な手段へと変換しなければならないのだ、と。作曲家の多くは「実践」とは程遠い。また、自作に向き合うということは、選ばなかった道に立ち返ることを意味する。
(ジョン・マウチェリ『指揮者は何を考えているか』, p71)
話題は音楽に留まらない。なんだかんだ指揮者もビジネスマンで、オーケストラを操っているように見えながら商業的なアレコレに操られているとか、コンサートで万雷の拍手を浴びた後にホテルの個室で孤独を感じたりしているとか、かなり赤裸々に語っていて、最後まで読みごたえがあった。
ひとりの聴衆として「聴衆は複数の演奏を聴いてようやく一つの曲の可能性に気づき始める」というような助言?はかなりためになった。やっぱりそうなんだ!
どちらもオモローカッタデス