- 書くことが無いので、一ヶ月ほど前に書いたみのミュージックへの苛立ちメモを代わりに上げよう。恥ずかしいので文字を小さくしておく。特に恥ずかしいところは文字を打ち消しておく。
みのミュージックの「ライラック」批評、けっこう疑問点が多い。あの楽曲構造を「ほぼボヘミアンラプソディ」「全然繰り返しがない」と捉える、タテヨコの複雑さを一緒くたにする、複雑さと快楽主義を等号で結ぶ、なぜかMahavishnu Orchestraを例示する、大衆の聴取から主体性を取り除き、その主体性は「理解」の論拠をボカしながらも着地したエリート主義だけに回収される。「音楽の本質」とやらを求めているのにも拘らず抽象的な領域に留まる彼は、エリート主義者にしても不十分なのである。もしその立場を徹底するとしたら、Aメロのリズムの反復、メインリフとCメロのコード進行における連続性、サビの順次/跳躍のコントラストだとか、単に保守的なJ-Popのマトリクスのほうが見えてくるはずである。「ドーパミン中毒のガキ」向けの音楽としての妥当性は、音響的快楽主義ーオートチューン、デスコアやハイパーポップ、エピック・コラージューなどに求めるべきだろう。「それぞれのパートが独立してる」というのも、メロディ・歌詞・アレンジのマクロな展開をみれば考えにくい。なんにせよ、「ライラック」は過剰・情報過多みたいな文脈に結びつけるにしてはだいぶ反復的で平易な楽曲だと思う(これは特に総合的な「聴こえ」をコントロールするプロダクションの側面が他の商業ポップスと同じく「イージーリスニング的」であるという点において裏付けられる)。また彼も言及したディズニーランドは「ライラック」のみに限った話(いったん比喩の妥当性は置いておく)ではなく、ポピュラー音楽全体をも射程圏内に呑み込む。それはボードリヤールが語った消費主義社会の臨界点、ハイパーリアルの象徴である。そういった世界において彼の批評が必要とするのは、枠組み自体の変更であり、具体的には、楽曲の意味構築に関わる社会的側面の探究(大衆の能動的聴取を認めることも含む)、また他のアーティスト・楽曲との比較に立脚した相対的視点の獲得である。ジャン・ジャック=ナティエが言った通り、客観性を重視するにせよ、音楽を創作一実践ー聴取のネットワークから取り出すことはできない。大前提、世間的には曲ではなく歌が流行っているのだ。「ライラック」が「ドーパミン中毒のガキ」向けの音楽だという認識は、構造的聴取からもたらされるものであり、それでは一貫して耳に残るなめらかなメロディラインを見落としてしまう。
- DC『AKB SIGILS』
Peelingfleshより好きだ。というかPeelingfleshを聴き直さなければいけない。2024年11月当時のリスニングログにはこう書いてあった:「ボーカルが効果音程度の大きさでミックスされており、バンドセットの隣にぽつんと置かれたラジオカセットからBPMだけを合わせたメンフィスラップが聴こえてくるというような変な状況になっている。よってデスメタルとヒップホップのフュージョンにすらなっていない。ラップは蛇足でしかない。デスメタル要素についてはただのクリシェで何の魅力も無い。」ボロクソである。ハードコア~メタルコアとヒップホップの学習を通して、だいぶ耳が変容した今ならどうか。