豊田市美術館に行ってきた。開館から1時間遅れて、小雨に打たれながら11時に到着。さすがに日曜日ともなれば駐車場はすでに満車。いまさら意味はないが、少し急ぎ足で入口へ向かう。緑のトンネルを抜けると、谷口吉生による、細長い直方体ベースのカッコよ建築がお出迎え。飾りのない噴水も上品で、程よくデカい。右手の庭っぽいところには既にいくつかの作品が屋外展示されているが、それは帰るときに見ようということで、そのままスタスタと歩いていく。
洗練された白い空間に圧倒されながら、声の聞こえるほうへ。待機列を整理するロープのパーテーションが100人以上収まるであろう長さで折り曲がりながら配置されていたが、なんと受付前には4人しか並んでいなかった。ラッキー。2,300円で全ての展示が見れるチケットを購入し、スタッフの案内を受けてスタコラ。写真撮影はほとんど禁止なので、落ち着いて鑑賞できそう。まもなく展示室。扉のないその入口をちょうどはみ出るくらいの行列。奥まで続いているらしく、30秒で1人分前に進むペースで渋滞している。ここまで混んでる展覧会は初めてかもしれない。
私は美術全般に疎い(好きではある)。個人レベルになるとなおのこと、そしてモネについてはニワカ未満である。漠然と、睡蓮のイメージしか、ない。中学時代、美術部の課外活動かなにかで国立西洋美術館に行って《睡蓮、柳の反映》のデジタル復元を見たこと(そのときの感情とかではなく、見たという事実)くらいしか思い出がない。嫌いか好きかで言ったら好き。抽象的な画風が面白い。それくらいのことしか頭にないまま今日を迎えてしまった。それでもいい。これから私はモノホンと真剣に対峙するのだから。当初は単に現代美術に強いという理由でこの美術館をマークしていて、モネ展の会期が被っているということは巡りあわせで後から知ったのだが、だからこそ真剣に。そんな気持ちで展示室に入場。
今回の『モネ-睡蓮のとき』は、モネが睡蓮を描き始める晩年の時期にフォーカスしている。展示は水面という共通項を持つ《バラ色のボート》から始まり、"印象"を込めたロンドンの風景、デカルコマニー的な上下対称の反射を見せるセーヌ川の連作、キュビスムの手法を取り入れたアイリスの装飾画などを経て、ようやく『睡蓮』。大装飾画の一部が広い円形のホールに数枚展示されている(ここだけ撮影OK)。いつのまにか渋滞から解き放たれており、自由に動けたし、しばらく没頭することもできた。
最後には白内障を患ってからの作品群。色彩はゴッホ的なバキバキなものに、タッチは荒々しいものに変わってはいるものの、モネである。無秩序のように見えても、遠くから見れば風景が立ち現れてくる。これまでより遠く距離を取らなければいけないが、魔術的なその本質は変わっていない。そのなかで一部、しだれ柳をモチーフにした、遠くから見ても全景が捉えられない大迫力の作品が存在する。これらは抽象画に片足を突っ込んでいて、また別の角度でかっこいい。この前見たシャイム・スーティン《ふしのある木》に近い。
腕時計を見ると14時。2時間経っている。作品数から考えると、先日のヤマザキマザック美術館以上に長い時間、それぞれの作品と対話していたことになる。さて、その対話の末得られたものはなにか。モネの芸術観だ。…たぶん(←ここ大事)、モネは、一瞬を切り取って冷凍保存する写実のやり方から離れつつも、同じ絵画というジャンルにおいて、生成変化の脈動そのものを表現しようとした。抽象的なのは変化の最中だから。実像と虚像が溶け合っているのはその時間とまた別の隣接した時間が溶接されているから。なにより連作はその試みを実現するために、睡蓮の「とき」を瑞々しく埋め込むために、打ってつけの手法だった。そういうことじゃあないか?たぶんね、たぶん…
常設展についてはまた明日。